【衆議院憲法調査会 平成13年11月8日】

○中山会長 これより会議を開きます。
 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。
 本日、午前の参考人として東京大学法学部教授長谷部恭男君に御出席をいただき、統治機構に関する諸問題について御意見をお述べいただくことになっております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、長谷部参考人、お願いいたします。

○長谷部参考人 ただいま御紹介にあずかりました東京大学の長谷部恭男と申します。
 本日はお招きにあずかりまして、大変光栄に感じております。非常に簡単なレジュメしか御用意しておりません。失礼をいたしますが、こちらに基づきまして話を進めさせていただきます。
 事務局の方からあらかじめお話がございまして、首相公選制、それから衆議院と参議院の関係については必ず話をするようにという話がございましたので、その点からまず話を進めさせていただきます。
 まず、首相公選制についてでありますが、この問題に関する私の意見は、さきにこちらの調査会、平成十二年の十一月九日の会議で、現在東京大学総長の佐々木毅教授、私の先輩ですが、佐々木参考人が発言した点と趣旨においてはほとんど同じであろうかと思います。
 私が首相公選制と言うときに、主に念頭に置いておりますのは、最近までイスラエルで運用されていた首相公選制のことでございますが、ああいった形の首相公選制をとるとどういうことになるかと申しますと、レジュメの最初に書いておきましたとおり、首相の選択と議会選挙における政党の選択というものにずれを生ずる、そういう問題でございます。
 本来、議院内閣制のもとでの政党の役割はどういうところにあるかと申しますと、これは、社会の中の多様な意見ですとか利害というものを吸い上げ、それを集約しまして、それを一貫した政策の形に組み立てる、さらにそれを首相の候補者とワンセットで有権者に提示するという点にあるかと思います。その結果、総選挙で勝利した政党ないし政党連合のリーダーが首相になる。そうして首相になったリーダーは、議会多数派の支持を既に得ているはずでありますから、その支持を基盤にして、総選挙で有権者に訴えかけた政策を実現していくということになるはずであります。
 ところが、イスラエルにおいて実際に見られましたとおり、首相を直接公選にすることにいたしますと、こういう議院内閣制のもとでの政党の役割が機能不全を起こすことになります。つまり、有権者は、首相を選択する時点で既に国政の基本方針に関する選択を済ませたように感じる、そして、国会議員の選挙に際しましては、自分たちの属するより小さな、部分的な利益を代表する候補者に投票しようという行動に出ることになります。
 また、政党の方も、実は、社会の多様な意見を吸い上げて集約し、それを首相候補者とワンセットで有権者に提示するという役割から解放されることになってしまいますので、そうなりますと、やはり個々の議員がそれぞれの部分利益を代表するという役割の方により偏っていくことになるはずであります。
 そういたしますと、せっかく首相は選任されても、議会に首相を支持する安定した与党が存在しない。そのために、首相は、有権者に提示した政策を実行する手段を奪われてしまうということになるはずであります。そのために、首相公選制をとることによって首相の指導力を強化するというもくろみは外れることになったのだろうかと思います。
 ただ、この点につきましては、イスラエルの選挙制度がかなり純粋な比例代表制をとっている、それがこうした首相の指導力の弱化ということにより貢献したのではないかという見方もあり得ようかと思います。
 そういたしますと、例えば別のやり方、典型的には小選挙区制がそれになるかと思いますが、小選挙区制にすればもっとうまくいくのかという問題になります。私の予測では、余りうまくはいかないのではないかと感じております。
 と申しますのも、小選挙区制という選挙制度は、それ自体の制度の論理といたしましては、実はローカルな特殊利益を代表する国会議員を選出する傾向を本来は持っているはずであります。
 ただ、典型的に小選挙区制に基づく議院内閣制を運用しているイギリスはそうではないではないかという疑問が出てくるかもしれませんが、イギリスでそうした傾向が顕在化しないのはなぜかと申しますと、これは全国レベルで二大政党制が既に成立しておりまして、その全国レベルで首相の選択と結びついた国レベルの政策選択を行うという政治慣行ができているからであります。そのために、全国レベルの政策選択が地域レベルの利害の選択に優越するという状況があるからであります。
 なぜそうなっているかといいますと、これは議院内閣制をとっていて、議会の多数派の指導者が首相になるという制度の論理がとられているからであります。これに対しまして、首相公選制をとる、首相は別建てで直接公選だということになりますと、やはり、こうしたイギリスで機能しているような選挙制度の論理というものも機能不全を起こすであろうと考えられるわけであります。
 もう一つの制度の選択肢といたしまして、もう少しアメリカ型の純粋な大統領制にしたらどうなんだろうか、そういうアイデアも考えられるかと思いますが、ただ、この考え方もかなり大きなリスクを持っているというふうに私は考えております。
 と申しますのも、アメリカ型のかなり厳格な権力分立の体制、そういう大統領制をとっている国家で、長期的に安定した民主政治を運営している国はほぼアメリカ合衆国一国に限られているというふうに言うことができるのではないかと思います。
 現代国家と申しますのは、政府が社会経済の隅々にまでいろいろな形で干渉していく、介入していく、そういう必要がある国家であります。そういった国家で、立法と行政を厳格に分立するという体制をとって、うまくいく方がむしろ不思議であります。
 そうすると、アメリカではなぜそれがうまくいっているのかという方向に疑問が進んでいくのだろうかと思います。
 これはやはり、アメリカ独特の政治風土や政治慣行というものを考慮に入れなくてはいけないわけでありまして、これは先生方の方が御案内かと思いますけれども、アメリカでは議員立法が行われているというふうに言われてはおりますけれども、実は、少なくとも重要法案の大部分につきましては、行政府の側で法律案を用意しまして、それを議会の議員に提案して、そして議員立法として議会に提案してもらうという慣行がございます。そういう意味では、実際の立法活動では、行政府と立法府とが互いに協働する、協力して働いていくという慣行ができ上がっております。
 また、投票の規律というものがかなり緩やかでありまして、大統領と議会の多数派の間にたとえ食い違いが起こっても、それがそれほど政治運営のデッドロックを生じない、そういう状況。あるいは、外交防衛上の大きな問題が起こったときには、いろいろな政治的な立場を超えて一致する、国内でコンセンサスをつくり上げよう、こういう強い伝統があるということもあります。
 こういったアメリカ特有の政治風土なり政治慣行なりをほかの国に移植するということは、これはなかなか難しいのではないか。つまり、制度の枠組みを輸入することはできても、その制度をうまく運用させていく背景の風土なり慣行なりを一緒に輸入することができるのかどうか、そういう問題があるかと思います。
 したがいまして、このような形の制度の改革にもかなり大きなリスクがあるというのが私の考えであります。
 レジュメで次の問題で、衆議院と参議院の関係について話を進めさせていただきます。
 これまたよく言われることでございまして、特に物珍しいことを申し上げるわけではないんですが、二院制の妙味を生かすには両院の構成が異なっている必要があるというふうによく言われることでありますし、そのとおりであるかなと思います。
 ところが、日本国憲法下の両院制というのは、なかなかこの両院の構成を異ならせるためには不都合なところがございます。と申しますのが、参議院の権限が、第二院といたしましては比較制度的に見ても相当に強い権限を持っているということであります。つまり、衆議院と参議院とで法律案の議決が異なっておりますときには、衆議院がその最終的な結論を決めるためには三分の二以上の多数が必要であるということになっておりますので、そうなりますと、衆議院の多数を支配している与党・政府は、参議院の多数派をも同時にコントロールしなくてはその政策の執行に必要な法律を得られないという状況、これは憲法の論理から必然的に出てくる結論だということになります。つまり、衆議院の多数派は参議院の多数派をもコントロールせざるを得ないようになっているわけであります。
 そういたしますと、両院の構成を異ならせて二院制の妙味を生かそうといたしますと、非常に簡単な結論は参議院の権限を縮小するということになるはずでありますが、ただ、参議院の権限を縮小するということになりますと、これは憲法改正ということになりまして、憲法上、参議院議員の三分の二の賛成を得る必要がございますので、現実論といたしましては、かなり難しい問題になるかなと思います。
 そういたしますと、とりあえず考えられますのが、参議院がその権限を自主的に抑制して行使するような慣例、すなわち憲法習律の形成が必要なのではないか、そういうアイデアが考えられるわけであります。例えば、地方自治や司法の独立の保障といったかなり国政上の基本的な問題、あるいは国の長期的な政策構想にかかわる問題に限って衆議院と異なる機能なり発言なりをする、そういった形で権限の行使をみずから抑える、あるいは参議院議員からは閣僚、副大臣など政府の構成員を出さないといった慣行の形成等がとりあえずは考えられます。
 このように自主的に謙抑的に権限を行使するという慣行ができてしまいますと、実は、憲法改正の必要も逆になくなってくることになるのかなということであります。
 次に、レジュメの3と4の問題に入っていきたいと思います。
 レジュメの3と4でお話ししようと思っておりますのは、つまり、今までのような例えば首相公選制という形のアイデアが出てまいりますのは、やはりその背景には、現在の議院内閣制の制度の枠組みなり運用の仕方なりにつきまして、これを改善する余地があるのではないか、そういう問題意識があるからではないかと思うからであります。
 そこで、では、議院内閣制、あるいはもう少し広くとりまして、議会制民主主義というものは、本来どのように動くのが正しい姿なんだろうか、そういういかにも学者らしい問題につきましてお話をさせていただこうというわけであります。
 議会制民主主義につきましても、その正しい運用のあり方についての古典的なイメージというものがあります。これは十九世紀のイギリスにおける政治のあり方がモデルになっておりまして、そこでの古典的なイメージと申しますのは、言論、出版の自由が保障されて、社会の中に多様な見解が行き渡る。そして、そういった多様な見解を吸い上げる形で議会での公開の審議と決定が行われる。もちろん、結論は多数決で決まるわけですが、多数派もみずからの決定を説得力のある形で公開の議論の場で正当化する必要があるわけですし、そういった議論の過程を通じまして、少数派もあしたの多数派になる可能性を持っている。こうして、公開の場での審議と決定を通じまして、次第に、政治プロセス全体としては、客観的に存在する公益、社会全体の利益へと近づいていくことができるという、かなりユートピア的なイメージであります。
 ただ、こういった議会制民主主義の古典的な像というものは、もはや現代国家ではそのままでは動かなくなっているのではないかという非常に強い批判が、これはかなり昔から、二十世紀の初めのころからございます。
 よく知られておりますのは、ワイマール共和国の時期に行われましたカール・シュミットという憲法学者の批判であります。
 彼に言わせますと、大衆が政治の舞台にあらわれ、その大衆の支持を調達するために組織政党というものが発達してまいりますと、こういった組織政党というものは、政治活動のためのリソースとして特定の利益集団に依拠するようになる。そして、そういう特定の利益集団を代表する組織政党というものは、かたい投票規律でもって、メンバーが公開の場で話す議論の内容あるいは多数決で示す投票の結果につきましても、あらかじめ結論を決めてしまっている。このように、あらかじめ所属する組織によって結論が決まっているのであるといたしますと、公開の場での審議には意味はない、相手方の議論を聞いて結論を変えるわけではないからであります。そういたしますと、あり得るのは密室における特殊利益の取引と妥協だけではないか。これがシュミットの批判の概要でございます。
 こういった批判に基づきまして、シュミットが、ではどうするべきかと言ったかと申しますと、直接民主制だと。つまり、そういう秘密投票による、間接民主制での、結果としての密室での特殊利益の取引と妥協ではなくて、公開の場での喝采によって治者と被治者の自同性を直接に明らかにしよう、そういう提案であります。ただ、こういったシュミットの提案がどのような結末をもたらしたかということは、これも広く知られているところであります。
 このシュミットの批判についての対応の仕方でありますが、いろいろな対応の仕方が考えられます。
 一つの対応の仕方が、レジュメのその次に書いている受けとめ方でありまして、これは、シュミットの描くような現代の議会制民主主義のあり方というのが、議会制民主主義の、本来現代議会制として運用されるべき姿なのだ、そういうことであります。これは一種の価値相対主義に立脚している考え方でありまして、要するに、この世には客観的な公益などというものは存在しないという割り切りの上に成り立っております。実際には、多様な価値観や利害が存在しているだけであると。
 そういたしますと、残るところはどういうことかと申しますと、組織政党というパイプを通じまして、それを議会に代表する、多数決で結論を出すということだけであります。ただ、多数決で結論を出すプロセスでは、いろいろな妥協もあって、少数派の意見も取り入れられていく。したがって、すべての立場がそれ相応に満足を得ることができるではないか、そのことが重要なのだ、そういう立場であります。
 こういった見地からいたしますと、実は、間接的な民主主義をとるということにもそれほど大きな意味はないわけでありまして、いずれにいたしましても、客観的な公益は存在しない、個々のばらばらの利害や価値観があるだけでありますので、そういった個々の意見や利害というものを直接に政治的な取引の場に参加させるということが、むしろより本来の姿に近いということにもなるわけであります。
 こういった割り切り方も一つの立場ではありますが、ただ、政治の役割というのは本当にそういったことだけなのか、そういう疑問が当然のように出てくるわけであります。
 こういった価値相対主義の立場からいたしますと、公開の場におきまして国政について討議をすることにはほとんど何の意味もないということになりかねないことになります。
 そこで出てくる局面を打開する考え方が、レジュメで申しますと次に書いてある「討議民主主義」という考え方であります。これはデリバレーティブデモクラシーという英語を翻訳したものでありますが、議会制民主主義というのはやはり客観的な公益の実現を目指すべき討議の場でなくてはいけないのだ、そういう考え方であります。この考え方からいたしますと、いわゆる民主的な討議と多数決による決定というのは、実は、客観的にも正しい決定に至るからこそ、あるいは至る蓋然性が高いからこそ、これを設営することに意味がある、そういう考え方であります。
 これを基礎づける物の考え方というのもいろいろなアイデアがあります。例えば、よく引き合いに出される考え方といたしまして、これはパズルのような話なんですが、コンドルセの定理という考え方があります。コンドルセというのは、フランス革命当時に活躍したフランスの数学者ですが、彼に言わせますと、ある社会のメンバーが、平均して考えたときに、二分の一を超える確率、つまり五〇%を超える確率で正しい選択をする、そういう条件が満たされていますと、多数決で正しい選択がなされる確率は参加する人数がふえればふえるほど高まる、そういう定理であります。
 選択肢が二つしかない場合に、正しい方を人が選ぶ確率というのは、当てずっぽうで選んでも五〇%でありますから、公開の審議の場でいろいろな情報を聞いた上で各自が判断をして、五〇%を超える確率で正しい選択をする、そういう条件はそれほど非現実的なものとは言えないかなと思います。
 それからさらに、これはアリストテレス以来ある考え方でございますけれども、多数者の知恵、そういうアイデアがあります。これは、多様な経験や知識を持った人々が集まって討議を交わすことで、そのうちの最もすぐれた個人が独力でたどり着くよりもなおすぐれた判断というものができるはずだということでございまして、個人が独力で集められる知識や経験にはおのずと限りがございますので、多様な人々が集まって議論をすることは、そういった個人個人の能力の限界を超える意味がある、そういう考え方であります。
 ただ、こういったコンドルセの定理ですとか多数者の知恵というのは、話としてはなかなかおもしろいけれども、それが現代の議会制でそのまま通用するとは言えないのではないかという疑問が当然出てくるはずであります。
 これは、先ほど御紹介しましたシュミットの描いておりますとおり、現代の議会制民主主義というのは組織政党が主なプレーヤーでありますので、だれが何を語りいかに投票するかというのは所属する政党によってあらかじめ決まっている、公開の場での討議を通じて議員が見解を変えるということはそれほど期待はできないわけであります。したがいまして、多数者の知恵というアリストテレスのアイデアが働く余地もかなり限られているだろう。また、投票規律によって実質的な意味での投票者の数は減ってくるわけでありますから、先ほど御紹介いたしましたコンドルセの定理というのもそのままの形ではうまく働かないはずであります。
 ただ、この点で、あきらめてしまうのは実はまだ早い、そういう話がございまして、現代ドイツの社会哲学者でハバーマスという有名な人がいます。これは彼の提案でありますけれども、彼の提案では、現代の議会制民主主義というのはもう少し広がりを持った形で理解しなくてはいけない。つまり、現代の議会制民主主義では、公開の場での討議と決定を経て公益へと至るプロセスというのは、時間的にも空間的にもより広がりを持った形で実は行われているのだ、そういう話であります。
 つまり、議会での討論というのは、実は反対政党に対して行われているのではなく、むしろ世論一般に向けて語りかけられているのであるという形でありまして、世論一般では、それを受けて社会全体での討議というものが進んでいく、そういった社会全体での討議の結果というのは、引き続く選挙を通じて議会の構成へと反映されていくはずだという話であります。そう言って、時間的にも空間的にもより広がりを持った形で、公開の場での討議と決定というのは本当は進んでいるのだ、そういう見方であります。
 ただ、このハバーマスの見方につきましても、さらに本当にそのとおりなのかという疑問を出すことができるわけでありまして、これまたシュミットの指摘にさかのぼってまいりますけれども、議会で行われている討論というのは、本当は、客観的な公益を目指しているわけではなくて、特定の利益集団の主張を反映しているだけではないか、そういうかなりシニカルな指摘であります。
 これに対してどういうふうに答えるのかということでありますが、確かにそういったことはあり得るとは思います。ただ、こういった特殊利益なり部分利益を追求しようという立場からいたしましても、公開の場でそれをあからさまに示すということは、実はその目的自体に反しております。つまり、そういう特殊利益を追求しようという目的からいたしましても、公開の場におきましては、それがあたかも一般公共の利益になるかのように筋の通った議論を組み立てていく必要があるわけであります。ただ、そういった大義名分を立てた以上は、結論におきましても特殊利益や部分利益を丸出しにすることはできないはずでありまして、そういった大義名分に対する一定の譲歩は迫られるはずであります。
 これは非常に常識的な議論に戻っていってしまうわけでありますが、つまり、世の中では大義名分も大事でありますが、具体的に制度や仕組みを動かしていく人々の利害というものもやはり重要でありまして、いずれが欠けても制度や仕組みというのはうまく動いていかないものであります。今まで申し上げた話は、公開の場における討議と決定というものにはこの二つを近づけて両方の実現を図る効用がある、そういう話であります。
 したがいまして、結論といたしましては、非常に凡俗な話にはなりますけれども、一般公共の利益を目指す筋の通った議論というものを公開の場で展開するのが現代民主政治における政治家のあるべき役割だ、そういう結論になるかと存じます。
 以上で私の話を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。

(中略)

○斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。
 長谷部先生、きょうは大変すばらしい御講演、ありがとうございました。
 私は、まず首相公選制について質問させていただきたいと思いますが、三権分立との関係でございます。
 中学校で最初に、社会科で、三権分立という制度については、これは人類の長い歴史と経験から得た知恵であって、ほぼ正しいものである、このように教えてもらいましたし、私もそう思います。
 それで、三権分立が正しいとしての議論になるわけですけれども、議院内閣制と大統領制では、三権分立とはいいましても、軸足が少し違うのかな。この場合、司法はちょっとおいておきまして、議院内閣制ですと、日本国憲法でもそうですが、国権の最高機関は国会ということで、立法府に軸足がある、アメリカでは、大統領制では行政府に軸足がある、このように私自身感じております。首相公選制を導入するとなりますと、その三権分立との関係ということもしっかり議論をしておかなければ全体として整合性のとれた制度にならないと思いますけれども、この首相公選制導入と三権分立の考え方について、先生のお考えをまず最初にお伺いいたします。

○長谷部参考人 どうもありがとうございます。
 三権分立というのは、御指摘のとおり非常に長い伝統のある概念でありますが、その中身につきましてはかなり多様な理解の仕方がございます。
 モンテスキューが「法の精神」の中で説いたのが三権分立に関する古典的な理解でありますけれども、あそこでモンテスキューが言っていること自体は、国の権限を立法、行政、司法の三つに分けて、一つの国家機関がそのうち二つを独占するようになっていてはいけないという、それ自体としてはかなり消極的な、それほど強い内容を持っていない主張をしているわけです。
 モンテスキューの「法の精神」での権力分立に関する議論のみそは、核心的な部分は実はその後にあります。
 つまり、そこでモンテスキューは当時のイングランドの議会の構成についての話をしているのですが、当時のイングランドの議会の構成というのは、御案内のとおり、国王と貴族院と庶民院、現在でも形式的にはそうなんですが、国王と貴族院と庶民院の三者が一つの法案について合意をしたときに初めて新しい法律が通る、そういう構成になっております。そのために、モンテスキューの指摘したところでは、こういった立法府の構成があることによって、国王と貴族と庶民の三者が一致したときに初めて法制度が変わるようになっている。ということは、でき上がった法律というのは、社会のすべての構成員の理解を得た、別の言い方をいたしますと、すべての構成員の利害にかなった法律になっている、だからよい議会の構成なんだ、そういう話であります。
 これはある意味では、先ほどからの話からいいますと、迅速的確な政策決定というものとはかなり無縁な制度でありまして、なるべく既存の政治制度を変えない、それぞれの構成員の既得権を守るのがよい政治だ、そういう考え方に立っている話になっているのだろうと思います。
 モンテスキューのころはもちろんそれでよかったのかもしれないのですが、現代国家というのは、先ほどからもいろいろな御意見の中で出てまいりますとおり、強力な指導力に基づく的確な統治活動というものが必要になっております。これは、どちらかと申しますと、モンテスキューが言う立法、行政、司法のどれにもうまくはおさまらない国家機能でありまして、最近の憲法学では、執政でありますとかあるいは統治、英語で言いますとガバメントに当たるわけなんですが、これに当たる機能をどうやって確保するか、そしてどこが担うか、そういう問題になってくるのだろうと思います。
 議院内閣制のもとにおきましては、通常は内閣がこの統治の活動を担っている。つまり、外交あるいは内政に関する基本的な政策を決定して、その方針に基づいてさまざまな法案なり予算案なりを用意して立法府の同意を求める、そして政策を執行していく、そういう役割であります。
 ですから、議院内閣制の場合、そういった役割を普通は内閣が担っている。大統領制の場合、これをどこが担うのかということになりますが、アメリカの場合ですと、大統領以下の官僚制がそれを担っているということになるのでしょうけれども、これまた先ほどからの話の繰り返しになりますが、大統領制をとったときに、必ず、この統治ないし執政の機能がうまく役割分担できるかという、そこがやはり問題になってくるのだろうかなと思います。
 以上です。

○斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。
 私もイスラエルに行ってまいりました。一番ショッキングな言葉は、向こうの学者の方だったんですけれども、首相公選制は政党政治の死を意味するとまではっきりおっしゃったわけです。しかし、私、それにまた反論いたしまして、選挙及び政党政治の役割というのは、一つは民意の反映であり、もう一つは多様な民意の集約である。その反映と集約を、首相公選制で集約を行い、また国会議員の選挙でそれぞれの民意の反映を行う、これがうまくドッキングすれば、ある意味で非常に理想的な姿になるのではないか。たまたまイスラエルの場合はいろいろな制度設計が悪かったがために、例えば、国会に不信任決議権を与えたり、比例代表制という制度だったり、そういう制度設計が悪かったからああいう結果になったけれども、民意の反映、集約という意味では理想的なんではないでしょうか、このように質問したところ、答えは返ってこなかったんですが、この集約、反映という観点から見た国会議員の選挙と首相公選制、これについて、先生、どのようにお考えでしょうか。

○長谷部参考人 通常の議院内閣制の場合ですと、先生の御指摘の、社会の中のいろいろな利害なり価値観なり意見なりを集約するという役割は政党が担っておりまして、しかも、そうやって集約したいろいろな利害なり意見を一貫した政策の形に組み上げて、それを自分たちの首相候補とワンセットで総選挙の際に有権者に提示する、そういう役割を果たすんだろうと思います。
 ところが、首相公選制を導入してしまいますと、実はその役割を政党はもう果たす必要がなくなってしまうわけです。つまり、首相候補の側で一定の政策を提示するということになりますので。そういたしますと、首相を選んだということで、有権者としては政策を選ぶ。では、議会の議員の選挙のときには何が残っているのかといいますと、これは、ナショナルなレベルの政策選択はもう済んでしまったので、じゃ、自分たちのより部分的な利益をねらおうか、そういう傾向に流れるのは極めて自然なことではないかなと思います。
 ですから、先生の御指摘の政党の本来の役割というものをよりよく果たさせるという点から見ますと、どうも首相公選制というのは余りよいアイデアではないのではないか、これが私の見方でございます。

○斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。
 私自身も、首相公選制については積極的な意見を持っていたわけでございますが、イスラエルの例を学んで、政党の役割との関連でもう少し深く考えてみる必要があるかなと感じて帰ってきた次第でございます。
 あと二つだけ質問させていただきます。
 まず、現在の日本の選挙制度と日本の政治風土の中での政党の役割のあるべき姿について、御意見を賜れればと思います。

○長谷部参考人 これは、私、冒頭のお話の最後のところでしゃべったことと関連をしている話かなと思います。
 つまり、こういう政治の場を通じていろいろな仕組みなり制度なりをつくっていくときに大事なことは、社会常識から考えまして二つあるのかな。
 一つは、きちんと筋が通っている、大義名分にのっとっている、そのとおりの筋の通った制度や仕組みになっているということも大事でありますが、それと同時に、直接その制度や仕組みの運用に携わる、それに関与する人々の利害もきちんと計算しているということだろうと思います。大義名分だけで突っ走っても、関係する人々の利害を全く無視しているということですと、結局そういう制度や仕組みはうまく動いていかないものだろうと思います。
 ですから、先ほど私は、部分利益だけを言ってはいけないということを主張してまいりましたが、部分利益もやはり考慮には入れなくてはいけないものなんだろうと思います。ただ、その部分利益を主張するときには、公開の場では部分利益をあからさまに主張するわけにはいきませんので、あたかも一般利益であるかのように主張する。しかし、公開の場でそう言ったからには、それに筋立てをして、部分利益丸出しの制度や仕組みにはできない、そういう効用があるのだということでございまして、政党が果たすべき役割というのもやはりそうなんだろうと思います。
 部分利益を反映し、政治の場でその実現を目指していくということも当然考えるべきことではあるんですけれども、ただ、部分利益丸出しではいけない。一般利益としての大義名分を実現するのだという形でそれを実現しないといけない。そういうことで両方がうまく回っていくということなんだろうと思います。
 ですから、首相公選制が持っている問題点というのは、言いかえますと、一般利益の選択の問題を首相の選択に、そして部分利益の選択の問題を議会の議員の選択に分割してしまうというところが問題でございまして、議院内閣制の本来の姿からいいますと、この両者は、両者相まって公開の場で討議され実現されていくべきものだ、そういうことになるんだろうと思います。

○斉藤(鉄)委員 最後に、先ほど、選挙の役割として民意の反映と集約という機能があると申し上げさせていただいたんですが、そういう意味で、現在の、特に衆議院の選挙制度、小選挙区比例代表並立制ということについて、私は、特に民意の反映というところで大きな欠陥があるのではないかと思っておりますが、現在の選挙制度についての先生のお考えをお伺いします。

○長谷部参考人 この小選挙区と比例代表を並立させるという制度は、なかなか理解の仕方の難しい制度でありまして、つまり、有権者に一体何を聞いているのかがよくわからない制度であるということだろうと思います。
 つまり、小選挙区で選択の対象になる人は、これは小選挙区の本来の制度の論理からいたしますと、一番当選に近そうな上位の二人、非常に有力な上位の二人の中からどちらを選ぶかという選択になりますが、比例代表の方は、そうではなく、自分の本来の支持する政党に投票するという選択を有権者はするということでございます。この両方を同時に一回の選挙でやるということでございますので、ちょっと有権者としてはわかりにくい選択をするという制度になるのかなという気がしております。
 ですから、むしろ比例代表での多様な選択のありようというものも保持し、同時に、安定した政権を担い得るような、ある程度議席数の多い政党をも議会の中に送り込む、そういう考え方を両方両立させようというのでありますと、現在フランスでとられているような小選挙区の二回投票制というのが一つのアイデアではないかなというふうに私は考えております。

○斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。