【衆議院憲法調査会 平成13年10月25日】

○中山会長 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。
 本日、午前の参考人として東京大学教授大沼保昭君に御出席をいただき、国際連合と安全保障について御意見をお述べいただくことになっております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、大沼参考人、お願いいたします。

○大沼参考人 それでは、私の意見を申し上げます。
 まず、お手元にきょうの私の話の概要が二枚で届いているかと存じます。その順序に従いましてお話しいたします。さらに、資料一覧もお手元にあろうかと存じます。主に、この資料一覧の中の三番目と四番目の毎日新聞「「昭和憲法」考」というものにかなり言及することがあろうかと思います。本当は最初の「「平和憲法」と集団安全保障」という論文の方にできるだけリファーしてお話ししたいんですが、議員の方々は大変お忙しいでしょうから、私のこれまでの経験からも、余り長い論文をやるとかえって迷惑だという経験もございますので、新聞の論考に主にリファーいたします。
 それでは、まず第一の「護憲的改憲論」という点からお話しいたします。
 私は、既に改憲論の立場を一九九〇年代の初めから明らかにして、さまざまな媒体でこれを論じてきております。ただ、その改憲論というのは、現憲法の精神を重視し、また、現憲法が基本的には大変すぐれた憲法である、戦後日本の経済的な繁栄と平和と安全の確保に十分な役割を果たしてきた、そういう認識を持った上での改憲論でなければならないというのが私の立場であります。
 まず、現憲法は、第二次大戦で侵略戦争を行った日本が国際社会に受け入れられるための条件でありました。また、現憲法は、軍事費の負担を減らして、戦後日本の経済繁栄を支える重要な拠点でありました。またさらに、現憲法は、戦後専ら経済的な利益を追求してまいりました日本が、死の商人として他の国々の紛争から自分が経済的な利得を得ない、そういう道義性を世界に示す根拠でありました。そして、さらにまた日本国憲法は、戦争責任を認めようとしなかった日本が、辛うじて、日本はあの戦争を反省し、今後とも平和な国家として生きていく、そういうメッセージを国際社会に発信する根拠でありました。
 こういった現憲法の積極的な意義は「「平和憲法」と集団安全保障」の論文の十二ページから十五ページに書いてありまして、また毎日新聞のこの「「昭和憲法」考 上」の下から二段目と最後の段落に簡単に要約してあります。後で御参照いただければ幸いです。
 しかしながら、現憲法は、これを維持する上で巨大な自己欺瞞が日本国民の間にありました。この点についても、詳しくは毎日新聞の論考の「下」の方に最初から第四段落までまとめてあります。
 最も大きい自己欺瞞といいますのは、九条が、その立法者趣旨として求めた絶対的な平和主義の志向と、それから日本が、日本の平和と安全、そして経済的繁栄を確保するために受け入れざるを得なかった日米安保体制というものの間の矛盾、これを何らかの形で自己に納得させなければならなかった。
 しかしながら、この両者の間には非常に大きな乖離がありまして、この両者を自分が道義的な立場で、国民倫理的な立場で納得することは甚だ困難でありました。
 その困難があったにもかかわらず、日本は建前と本音の使い分けで、戦後の具体的な物質的利益、つまり経済繁栄と、それから一国の平和、日本が平和で他のさまざまな紛争から離れていられる、そういう状態を確保するために甘受してきたわけであります。
 そのことによって、我々は憲法に対して一種のシニシズム、冷笑主義というべき態度を持つに至りました。しょせん憲法に書いていることは紙の上のことであって、我々が実際に行っていることはそれとは別の本音ベースのことである、本音で切り抜けていけばよいのだ、そういう本音万能主義をもたらした一つの大きな問題点がこの憲法にはあった、特に第九条にはあったわけであります。
 もう一つは、一国平和主義批判という主張に代表される、日本人への偏愛と結びついた極端に利己主義的な平和観であります。
 つまり、日本が安全でさえあればよい、日本人が死ななければよい、危険なところには一切自衛隊は派遣しない、日本人が外国で死ななければよい、国際安全保障のことはすべて米国その他の国々がやってくれる、日本はそれに手を汚したくないという非常に極端な、利己主義的な平和観がはびこってしまった。
 しかしながら、このことは実は、いわゆる一国平和主義と批判されるこれまでの国会での野党の立場、あるいは岩波の進歩的文化人というものに限られたものではありませんで、例えば我々は日本のことをこれまで単一民族の社会であるというふうな形で考えてきたわけでありますけれども、この単一民族という神話、私はこれをずっと神話と言い続けてまいりましたが、そのことも要するに、日本社会には日本人という単一の民族が存在しているんだ、アイヌとか在日韓国・朝鮮人とか、あるいは海外からやってくるイラン人とかフィリピン人とか、そういった人々は日本の本来の構成メンバーにはなれないんだ、そういう日本人への偏愛と結びつくものだったわけであります。これは、むしろ野党というよりは国会の多数派を占めていた自民党にも非常に多い感覚でありまして、日本社会の恥ずべき一面であったわけであります。
 そういう意味で、日本国憲法というものは、極めて重要な戦後の日本の安全と経済的繁栄を支え、そうして道義性を発信する根拠であると同時に、我々の倫理的な退廃を招く、そういう面も持ってきたわけであります。
 戦後、日本国憲法は、五十年以上一度も改正されなかったわけであります。このことは、憲法が、先ほど申しましたような経済繁栄、ソ連に対する安全保障、平和主義の発信という本来両立しがたいぜいたくを日本国民に許してくれたその一つのかぎだったためであります。もちろん、具体的には、国会で憲法改正に反対する勢力が三分の一以上を常に占めていたということが具体的な理由でありますけれども、その根源には、今言ったようなぜいたく、これは言ってみれば日本国民の戦後のサクセスストーリー、日本国憲法はそういう日本のかぎ括弧つきの「成功」を支える根拠である、そのために我々は憲法を改正しなかったということがあるのだろうと私は思っております。
 しかしながら、こうした憲法もさまざまな点で現実との不適合が蓄積されまして、その現実との乖離というものはもはや限界に達しているのではないかというのが私の考えであります。もっとも、現実と不適合があるから憲法を変えるべきだというのは、やや単純化された議論であります。
 本来、法というものは、現実との乖離があって当然であります。もし法と現実とが完全に一致しているのであれば、法には存在理由はない。つまり、みんなが交通規則を守るのであれば、交通規則というのは要らないはずであります。みんなが速度八十キロで走ってしまうから、速度制限を六十キロにして事故を少なくするという法の存在理由があるわけです。その意味で、法というのは建前であり、我々が自分自身に課すやせ我慢の道具であります。
 ただ、法というものは、本来、現実との乖離をその本質的要素とするわけでありますけれども、それにしても限度というものがあります。憲法と現実との距離が余りに広がって、だれの目にも憲法と異なる現実の状態が続きますと、憲法という国家の最も重要な基本法に対する国民の広範なシニシズム、冷笑主義というものが生じてまいります。しょせん憲法というのは建前にすぎない、そういうシニシズムであります。
 私は、一九九〇年代ごろから、現憲法が、言ってみればそういういわば危険水域に入りつつあるという認識を持っておりまして、そのことが、私がこれまでの立場を若干修正して護憲的改憲論というものを九〇年代の初頭から主張するようになった基本的な理由であります。
 もう一つ、私が九〇年代から改憲論を主張してきた原理的な論点がございます。
 私の考えでは、憲法とは国家の基本理念の表明であります。もちろん、現在の日本国憲法というのは、これは自由主義、リベラリズムと民主主義に基づく憲法でありまして、その憲法の第一の存在理由は、基本的人権の尊重、国家の権力の抑制というところにあります。しかしながら、これはたまたま現在の歴史的段階の憲法がそういう内容を持つということでありまして、本来、憲法というものは、国家の基本理念を各世代の国民が表明し、これを定式化したものというふうに考えるべきであります。
 歴史的に見てまいりますと、それぞれの世代は、それぞれ自分たちの世代が考える基本理念というものを表明し、それに従って国家を運営する権利を有し、義務を負っております。
 ここで私が一つの世代と考えているのは、約二十五年であります。約二十五年たてば、社会を運営する中核部分というものが変わります。子供は親に従って社会の中で行動すべきものでありますけれども、その親も、老いては子に従えということであります。
 恐らく、ある社会の最も中核をなす世代は、四十代から六十代というほぼ二十五年間の世代でありましょう。この世代は、もちろん例外はございますが、平均してみれば、最も判断力が充実して、社会の背骨となって国家を運営する世代であります。
 ところが、今日、四十代から六十代の世代を考えた場合、現在の憲法というものは、自分が生まれる前か、せいぜい自分が十代の未成年の時代につくられたものであります。私自身は五十五歳でありますけれども、私にとっては、憲法というのは、自分が生まれたときにつくられたもので、私は何らこの憲法の制定に関与しておりません。こういう社会を運営する中核となる世代が、二世代前の世代がつくった憲法によってその基本的な枠組みを拘束されるということは、甚だ不自然であります。
 各世代は、自分たちがよしと考える理念を憲法という形で表明して、その枠組みをみずからが設定して、それに基づいて国家を運営すべきであります。もちろん、各世代は独立して存在しているのではなくて、世代的な存在というのは、その前の世代あるいはその前の前の世代からの蓄積に基づいて国家を運営するわけであります。ですから、革命ということは基本的に望ましくない。憲法を基本的に維持しながら、部分的な改正によって、各世代が最もその理念に適合した形の憲法につくり変えていく、そういう漸進的な営みが、国家を安定した形で運営していくかぎであります。
 今日、日本社会において、例えば宮澤元総理あるいは後藤田元官房長官といった世代にかなり強い護憲的な感覚があろうかと存じます。それはそれで、私は、大変理解のできる、またありがたい感覚であろうというふうに思います。しかしながら、その世代が国家の基本的な枠組みをつくったその憲法を、これからの二十一世紀の我々の世代、あるいは我々よりももっと若い世代がそのまま維持すべきかどうかということは、これはまた別の話であります。
 現在の憲法にかかわった世代はほとんどもう鬼籍に入っているわけでありまして、我々は、二十一世紀に当たって、現在の三十代から六十代あるいはせいぜい七十代、そういう世代が共通に合意できる、そういう憲法をつくって、またそれをもととして日本社会を運営していくべきであるというふうに考えます。
 次に、概要の2に移りたいと思います。
 「昭和憲法制定時から八〇年代までの日本と国際社会」についてごく簡単に見ておきたいと思います。
 憲法制定時の日本はどういう社会であったかということを考えてみますと、一人当たりのGDPは約百米ドル程度、つまり今日の三百分の一の非常に貧しい小国でありました。その時代は、第二次大戦によって強度の忌戦感情あるいは厭戦感情があり、また、戦争の被害者であるという意識が国民に広く共有されている、そういう時代でありました。他方におきまして、日本国民には、第二次大戦が日本の侵略戦争であったという意識は欠如しておりまして、専ら、戦争というのはもはや懲り懲りである、もう二度とこういう悲惨な思いはしたくないという被害者意識が支配的な時代でありました。そういう被害者意識と厭戦感情、忌戦感情をてことする強い平和主義が蔓延していた時代でありました。
 また、この時代には、あらゆる面で米国への崇拝と憧憬が支配的でありました。その結果として、戦前のほとんどすべての日本的なる理念、思想、制度、あるいはアジア的なる理念、制度、思想というものが否定されました。これは、私がかつて「倭国と極東のあいだ」という本で書きました周辺国家日本の発想が強くこういう形で出たわけでありまして、この基本的な枠組みは、残念ながら今日もそう変わっておりません。そしてまた、戦争に懲り懲り、国家はすべてあしきものという感覚が経済的な私的利益を追求することを万能とする思想を生み、それが蔓延した時代でもありました。
 さらに、この時代につくられた国連の集団安全保障体制とはどういうものであったかということを次に簡単にお話しいたします。
 第二次大戦後の国連の体制、その中核をなす集団安全保障体制を理解するには、この体制の構築者たちが第一次大戦後の国際秩序の構築を極めて失敗作であったというふうに理解していたという、その理解が極めて重要であります。
 彼らはどういう点を失敗の原因と考えていたかというと、まず第一に、第一次大戦後の国際連盟体制は集団安全保障体制として極めて弱体であったという認識があります。これは、米ソという非常に有力な大国が参加しませんでしたし、国際連盟における戦争違法化は不徹底であり、制裁は非軍事的制裁にとどまっておりました。
 さらにまた、第二に、第一次大戦後の講和というものは、極めて過酷で非現実的な講和でありました。つまり、ドイツに対して戦争責任を課し、極めて重大な賠償を課して、結局のところ、連合国はこの巨大な賠償を取ることはできなかった。逆に、そういう不正な講和を課したことがドイツ国民の恨みを生み、ナチス・ドイツの台頭を促した、そういう結果を招いた。他方で、英国などはそういう不正な講和だという負い目の感覚があり、それがナチスへの融和的な姿勢を生んだ。その結果として、ベルサイユ体制をナチス・ドイツが無視しじゅうりんしたときにさえ、英国は、そもそもベルサイユ体制自身が不公正だという思いがあったために、断固とした姿勢をとることができなかった。米国も同じであります。
 事情をさらに悪くしたのが、戦勝国の講和体制、つまりベルサイユ条約と戦後の国際秩序、国際連盟体制というものが同一視されていた。具体的には、国際連盟規約がベルサイユ条約の一部として構成されていたということであります。国際連盟体制が不公正なベルサイユ講和の一部だったために、ますます正当性を主張することができなかった。
 最後に、最も経済的に豊かで経済力のあった戦勝国の米国が、保護主義的、孤立主義的な政策をとって、国際経済の円滑な発展を阻害した。その結果、ドイツは国際経済を利用して経済的に復活することができない。日本も、第一次大戦の経済ブームが去ってしまうと経済不況で苦しめられて、近衛元首相のいわゆる英米本位の平和に対する恨み、怨念というものが出てまいりました。さらに事態を悪化させたのは、米国や欧州で人種差別が猛威を振るって、日本の移民を差別し、日本国民のプライドを傷つけるということがありました。
その結果として、大恐慌、そして日独伊では、英米に対する強い反発を持つファシズムが台頭することになったわけであります。
 第二次大戦後の国際連合は、こういった失敗を繰り返さないという意識に支えられてつくられたわけであります。
 そのことが、第一に、国連において集団安全保障体制が著しく強化された。国連憲章の二条四項で武力行使を一般的に禁止し、これに反して違法な武力行使を行った国には軍事的制裁も含む集団的な措置をとるという集団安全保障の極めて強化された体制がつくられましたし、唯一の例外的な武力行使には安保理の、形式的ではありますけれども、コントロールをきかせるという形で、この集団安全保障体制を形式的には強化したわけであります。
 さらに戦勝国は、過酷な講和だった第一次大戦の失敗を反省して、日独伊に対して寛大な講和政策をとりました。日本は、サンフランシスコ条約その他で、甚だ日本としては少額の、当時高度成長しつつあった日本としては比較的余裕のある賠償で戦争責任をいわば免除してもらうことができましたし、中国は、信じられないことに、賠償を放棄するという大変寛大な態度をとりました。形式上日本の戦争の最高責任者であった昭和天皇は、戦争責任を追及されることなく終わりました。そうした寛大な結果を享受した日本とドイツは、経済的におくれた国々に今日では大量の経済的、技術的援助を行って、その寛大な講和にこたえることができたわけであります。そういう意味では、寛大な講和政策というのは非常に大きな成功をおさめたわけであります。
 第三に、日独の講和、日本の場合はサンフランシスコ条約であり、ドイツについてはなし崩しに講和が実現しましたが、これは、国連体制と切り離して行われました。
 そして最後に、米国は、自国の市場を開放した自由貿易体制をつくり上げ、他の経済的に苦しい状況にある日本やドイツあるいは戦勝国をも含めて、この経済が発展するように非常に寛大な経済政策を戦後とりました。そのことによって、第二次大戦後の国際体制は、米ソ対立というもう一つの非常に重大な問題がなければ、第一次大戦後の講和と戦後体制よりもはるかに成功した作品であったわけであります。
 3の、「二十世紀末(冷戦終結後)の国際社会」に移ります。
 今申し上げましたように、第二次大戦後の世界は、戦後体制の構築としては第一次大戦後の戦後体制よりもはるかに成功をおさめたにもかかわらず、冷戦というもう一つの大きな問題を抱えることによって、その問題が一九八〇年代までは大きな限界、問題となってさまざまな問題を生んでまいりました。ベトナム戦争がその代表例でありました。
 しかしながら、一九八〇年代末に冷戦が終結し、ソ連、東欧圏が崩壊し、米国の一極覇権が成立いたしました。この米国の一極覇権を支える実体的要因は、言うまでもなく米国の強大な経済力と軍事力であります。しかしながら、二十一世紀の国際社会を考える上で最も重要なのは、米国のソフトパワー、文化的な情報的な優位というものが続くだろうということであります。そのことによって、戦後の国際秩序を維持、支配してきた米国的な発想と生活様式は、二十一世紀もますます強化されて続くだろうというふうに思われます。
 この米国の一極覇権は、地球的な規模の資本主義的経済と結びついておりまして、いわゆるグローバライゼーションという形でこれが進行しております。そして、このことは、国境を越える普遍的な理念、この代表が人権と民主主義でありますけれども、この理念と結びついて、現在の途上国、非欧米諸国に対する非常に大きな圧迫、圧力となって二十一世紀も続いていくことになるでありましょう。
 他方で、東アジア、日本、それからNIES、そして中国といった国々が経済的な実力を向上させ、それに伴って一定の自信を回復してきました。二十一世紀の世界は、中国の超大国化というものを我々は必ず見ることになるだろうというふうに思っております。
 一九九〇年代の世界になりますと、集団安全保障の意義と限界というものが極めて明確にあらわれてまいりました。既に一九八〇年代まで、集団安全保障体制が東西の冷戦によってうまく機能しない、そのことから自衛権がむしろ常態化しておりました。NATOとワルシャワ条約機構がその代表であります。その結果として、国連の集団安全保障体制というのは、あたかも日本国憲法の九条的な地位に置かれることになった。つまり、理念として、規範としては一見それが原則でありながら、事実は個別的、集団的自衛権に基づく体制というものが現実である、そういう理念と現実の乖離が国際社会でも生じていたわけであります。
 そのすき間を辛うじて埋めてきたのが国連の平和維持活動、PKOでありますけれども、PKOというのは本質的に現状維持的な活動でありまして、これは、新たな暴力、戦争やテロリズムの攻撃には対処できない。そこで、一九九〇年代には、米国の単独行動主義かあるいは国連の授権に基づく多国籍軍か、そういう選択肢が多くの人々の目の前に提出されるようになったわけであります。
 最後に、九〇年代非常に明らかになってきたのは、グローバライゼーションの進展と米国の一極覇権による世界的な貧富の格差、文化、宗教的な衝突による敗者の側の怨念の蓄積であります。
 先日、九月十一日に生じた事態は、この怨念の蓄積がいかにすさまじいものであるか、そして、こういう非合理的な行動に対して先進国の安全保障がいかに脆弱なものであるかということを見せつけた典型的な事例だったわけであります。この点についての私の主張、意見はございますけれども、これは後から、もし皆様の方から質問があれば、お答えしたいと思います。
 次に、4と5を、残り時間が九分ほどですので、まとめてお話ししたいと思います。
 二十世紀末以来、日本は、さまざまな憲法についての問題を抱えながら、戦争直後の意識構造が八〇年代の国際化まではほとんど変わらずに来てしまった。九〇年代にもその意識はなお残存しております。例えば、その一つとしての相も変わらぬ米国崇拝と憧憬がありまして、このことは九〇年代のグローバライゼーションによってさらに強化された。今日の九月十一日事件以後の対応でもそうでありますけれども、常に米国の眼鏡を通してしか世界を見ることができないという問題性があります。
 第二に、憲法九条の厳格解釈にしがみつくことによって、戦争責任を認めないまま、二度とやりませんというメッセージを近隣諸国に発信するという構造はまだ変わっておりません。憲法九条というのは、本来、日本の自衛と国際社会の安全保障に対する参加を根拠づける条文であったわけでありますけれども、九条は、それとは異なり、日本が戦争責任を果たしてこなかったその代替機能、つまり、戦争責任を正面から認めることはしないけれども、実際上はあれを悔いているんだ、二度とああいうことはやらないんだというメッセージを諸国に発する、そういう根拠として用いられている。つまり、憲法九条は、本来の役割と違った機能を期待され、そういう機能を果たして今日まで来てしまった。
 日本社会の中では、戦争直後と違って、第二次大戦が日本の侵略であったという認識はようやく九〇年代に定着してまいりました。ただ他方、これに対して、これを認めることができない、感情的にこれに反発するという反動も生じておりまして、過去の所業を隠ぺいし強弁するという風潮が出ております。このことは、しかしながら、私の考えでは、日本の積極的な外交と対外的な発信をみずから損なう、そういう意味での愚行であるというふうに私は考えております。
 過度の米国モデルによって日本社会がさまざまな点で問題性を抱える、このことが九〇年代には非常に明らかになってまいりました。家庭と地域社会のモラルが低下いたしました。専ら被疑者、被告人の権利保障のみに偏った刑事法制度の問題性が噴出してまいりました。大量生産、大量消費、大量廃棄の生活様式が定着すると同時に、深刻な環境問題が出て、この解決策を我々は米国モデルの思考の中で見出すことができない。自由の名のもとで放縦が蔓延するという憂うべき現象も九〇年代には極めて明らかになりました。こういった問題状況というものは二十一世紀前半にも続くだろうというふうに思います。
 私は、九〇年代に、例えばPKOの本体業務凍結を解除するということは当然行っておくべきだったというふうに考えますけれども、九〇年代の日本は、バブルの後始末と経済不況への対応に追われて、こういうことをやってまいりませんでした。我々はそこで二十一世紀に入ってしまったわけであります。
 この二十一世紀で、我々が国際社会、特に国連の安全保障との関係で日本国憲法をどのように構想していくか。私は、ここで最初に申し上げたように、日本国憲法を今までの憲法の精神を十分生かしつつ改正すべきであるというふうに考えるわけであります。もちろん、憲法を変えずに解釈を変更する、例えば集団的自衛権というのは憲法九条のもとで許容される、そういうふうに憲法解釈を変えることによってやりくりをしていくという行き方もできないわけではありません。憲法というのは伸縮自在な規定であり、法としてかなり許容性の高い規範であります。
 ただ、私が最初に申し上げた二つの点、一つは、国家の基本原理にかかわる安全保障を憲法の解釈の変更という形でやるべきではない。そういうふうに憲法をそのままにしたまま解釈で切り抜けるというやり方は、ますます日本国民の憲法に対するシニシズムを強めて、我々が社会を運営していく上でどうしても必要な法に対する信頼、法に対する敬意というものを日本国民から奪ってしまう、そういう非常に重大な問題があろうかと思います。
 第二に、これも最初に申し上げましたように、各世代には、みずからの理念というものを憲法を通して表明し、その枠組みの中で国家を運営していく権利と義務があります。それを認めずに、半世紀以上前につくられた、その世代が最もよかれと思ってつくった憲法を維持していくことは、どうしても社会の運営に無理を来して、さまざまな問題を生むことになります。
 これまでの憲法が果たしてきた役割というものを十分評価し、その理念を最大限尊重した上で、我々としては二十一世紀の初頭に憲法改正をすべきであるというふうに考えております。
 以上で私の意見の開陳を終わります。御清聴ありがとうございました。

○斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。よろしくお願いいたします。
 先生のいわゆる現憲法の戦争責任代替機能というお話、大変興味深く伺いました。先生の戦争責任の論文の中に、在韓被爆者、韓国にいる被爆者の問題も取り上げられておりますので、このことにつきまして、私も大変興味を持っているものですから、まず最初に質問させていただきます。
 今、国内には被爆者援護法がございます。国内に居住している、これは日本人だろうと外国籍の方だろうとこの援護法が適用されますが、一歩日本の国を出ますと援護法が適用されなくなります。これは別に法律に書いてあるわけではないわけですが、行政庁がそのように解釈しているということでございます。
 これに対して裁判が二つございまして、一つは広島地裁での裁判、一つは大阪地裁での裁判です。この問うていることは必ずしも一緒ではないんですけれども、基本的には援護法が在外者には適用されないことについて、広島の裁判は、やむを得ない、しかし大阪の裁判は、これはおかしいということで適用すべきだ、このように裁判所の判断も割れているという状況でございます。
 そういう中で、これはまさしく自民党さんから共産党さんまで含めまして超党派で、在外被爆者に援護法適用をという議員連盟をつくっているわけですが、先週末、その議員連盟で、各党代表者が在韓被爆者の現状調査をしてきたわけです。私も行ってまいりましたが、大変重たい現実を目の前にして、私も本当に大きなショックを受けました。
 強制連行されて広島に来て被爆し、家族を失い、その後、日本人として扱われなくて故国に帰り、故国でも、日本から帰ってきたという差別、また被爆者という差別に耐えながら、また健康障害に悩みながら必死で生き抜いてきた方々の心の叫び、自分はあと数年で死んでしまうけれども、日本国内にいる被爆者と同じ扱いをしてほしい、自分の人格を認めてほしいという悲痛な叫びを聞いて、各党の代表者も本当に重い思いをして帰ってきた次第でございます。
 質問でございますけれども、この在韓被爆者と戦争責任ということに関しまして、先生のお考え、また、憲法に絡めてのお考えをお伺いできればと思います。
 もう一つ、そのときに、ある被爆者が、日本はなぜあれだけの、戦争の通常の手段とはとても言えないような原爆を落としたアメリカの責任を問わないのか、このような声もございました。このことについても、先生のお考えをお伺いできればと思います。

○大沼参考人 私は、在韓被爆者の問題については余り自分で深く関与してきたわけではありませんので、あるいはちょっと見当外れのお答えになるかもしれません。
 日本は、戦後、サンフランシスコ平和条約、東南アジア諸国とのさまざまな賠償協定、日韓正常化に伴う請求権協定、中国とは日中国交正常化に伴う日中共同声明という形で、ほぼ、北朝鮮以外とは戦争と植民地支配に関する法的な意味での賠償問題を解決してきたわけです。
 ただ、その解決というものは、先ほど言ったように、戦後の米国や中国が、日本に対して非常に寛大な態度をとって、日本の経済力を復興させて、そして日本の国力を回復させることによって、むしろ戦後の平和で経済的により望ましい国際秩序をつくろうとしていたことから、日本にとっては、結果的には余り大きな負担を感じないで済む額の賠償で済ませてきたわけです。その結果として、また、その賠償金をもらった側の方が、特にアジアの近隣諸国の場合には軍事政権、独裁政権だったということがあって、日本からの賠償金というものを個人の救済には十分充てなかった、そういう事情もあって、個々の犠牲者の間には非常に大きな不満が残っている。
 その代表的な問題がいわゆる慰安婦問題であるわけですけれども、それ以外にも、私がずっと長年かかわってきたサハリン残留朝鮮人の永住帰国問題とか、在韓被爆者問題というものがあったわけです。在韓被爆者問題とサハリン残留朝鮮人の永住帰国問題は、一応、日本政府が在韓被爆者の救済の基金、それから、サハリンの残留朝鮮人については韓国に日本政府がお金を出して帰国者収容の施設と病院をつくるということで、私は、それなりの手当ては日本はやったというふうに基本的には考えてはおります。
 ただ、その後、この在韓被爆者の基金が必ずしも十分な被害者救済の機能を果たしていない、いろいろ問題を残しているということは私も耳にはしておりますので、そういう問題は、私の前からの持論ですけれども、戦争責任の問題というのは、二十世紀内にけじめをつけるとか、みそぎを済ますという問題ではなくて、被害者あるいは遺族の不満が残る限りは一つ一つ地道に対応していかなきゃならない。ですから、私は、先ほど申し上げた、国家の指導者の象徴的な行為と、個々の犠牲者に対する非常に地道な一つ一つの積み上げの両方が必要なんだろうと思うんです。
 ですから、被爆者救済基金を設ける形でこの在韓被爆者の問題は一応解決したはずだけれども、その後なお問題が残っているというのであれば、それは個別的に地道に対応していくべきだろうというふうに思います。
 それから、原爆投下を日本がなぜもっと批判しないのかというのは、おっしゃるとおりですけれども、そのことは、さっきから言っている、日本が自分がやったことが悪かったということを認めないことと表裏一体をなしていると思うんです。
 つまり、日本の真珠湾攻撃なりマレー半島の侵入作戦、それによって始まった大東亜戦争というものは、明らかに日本の侵略、あるいはそれ以前から中国に対して続いている侵略だったわけですから、それについて日本が自分は悪いことをやったんだと明確に認めるならば、米国に対して、自分はちゃんと認めましたよ、あなたも原爆投下という非人道的な武器使用をやったことの責任を認めなさいと言う道義的な基盤ができると思うんです。ところが、日本の側で、自分がやった悪いことを認めない。そうすると、自分で自分がよって立つ道義性に自信が持てなければ、米国が非道義的なことをやっても、その責任を追及することは難しい。私は、そういう悪循環があるんだろうというふうに思います。

○斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。
 あと一点、先生の御講演の中で、本来、九条というのは国際社会の安全保障への積極的参加をうたっているんだ、このような部分がございました。このことについて、もう少し詳しくお考えをお聞きできますでしょうか。

○大沼参考人 これは、最初の中川議員の、前文と九条との間に整合性があるのかという御質問に対して、解釈の仕方ではあるというふうに私がお答えした点とかかわっているわけです。
 つまり、前文とあわせて読むならば、九条は、日本国民は、自己の独善的な利益を追求する、その結果生じた国際紛争を解決する手段としての戦争は永久にこれを放棄する、しかしながら、そのことは正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するという九条の文言を何ら妨げるものではない。その結果として、前文がうたっている、みずからが国際社会で名誉ある地位を占める、そういう形での国際平和の維持と確立への積極的な姿勢を九条は何ら妨げるものではないんだ。
 そういう意味で、九条というのは、日本自身の安全保障の問題であると同時に、国際平和への積極的な参加に対する日本の行動を、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という文言からして基礎づける、そういう意味を持っていたはずだと。
 もう一つ申し上げますと、九条を解釈する上で、これまでの憲法学界を中心としたさまざまな議論が陥っていた非常に大きな問題点というのは、国権の発動として国家の利益を追求する武力行使と、国際公共利益を実現するための武力行使を峻別しないで、それを一緒にして議論してきた。九条は何ら後者を禁じていないというのが私の解釈です。

○斉藤(鉄)委員 終わります。ありがとうございました。